建築物探訪ブログ

旅行先で訪れた著名な建築物を紹介するブログです。

東京中央郵便局 ~日本美を体現するモダニズム建築~

東京駅の丸の内口、辰野金吾による赤煉瓦の駅舎を出て南側に進むと、聳え立つJPタワーに前掛けのように建つのが今回紹介する東京中央郵便局です。

 

東京中央郵便局は地上5階、地下1階で1931年に竣工しました。現在、当初の建物は外観部分が残り、高さ200メートルのJPタワーに胴巻きのように廻らされています。

 

f:id:Yuki-1013:20191210195240j:plain

f:id:Yuki-1013:20191210195311j:plain

 

まず最初にこの建築の特徴からいきましょう。

 

設計者は吉田鉄郎。1895年に富山県で生まれ、旧東京帝国大学を卒業後、逓信省(旧郵政省の前身、現総務省)に入省し多くの建築物を残します。この逓信省は、郵便事業にとどまらず電話といった通信事業も手掛け、明治19年(1886)には省内に建築部門が設けられます。その中で濃尾地震関東大震災による施設の損壊により、煉瓦造りの建物はコンクリート造りに置き換えられ、岩本禄、山田守による表現主義的な建築日本の建築界をリードする先進的な建築を生み出していきます。そして、吉田鉄郎もこの動きの中心人物でした。

 

東京中央郵便局の前身となる建物は関東大震災によって消失し、震災復興としてこの局舎が建築されたのでした。これまでのギリシャ風、ゴシック風、ルネサンス風といった様式主義から脱却し、西洋から導入された鉄筋コンクリートを使用し、機能、日本的な表現を一体とした建築として高く評価されました。

 

f:id:Yuki-1013:20191210195420j:plain

f:id:Yuki-1013:20191210195548j:plain

 

柱、梁、庇で構成され、柱と梁で囲まれた部分は開口となるといったことは日本の木造建築物と同様であると言えます。

 

f:id:Yuki-1013:20191210195630j:plain

f:id:Yuki-1013:20191210195902j:plain

 

柱と梁で囲まれた開口部も装飾がなく、直線によって構成され、非常にシンプルです。また、敷地の形状に合わせた緩やかな曲線、開口部での対称性とその集積による全体の構成、そして全体においての対称性の維持と緻密な計画がなされています。

 

f:id:Yuki-1013:20191210195737j:plain

f:id:Yuki-1013:20191210195818j:plain

 

内部から保存部分を見ることもできます。

 

f:id:Yuki-1013:20191210200213j:plain

f:id:Yuki-1013:20191210200031j:plain

 

さて、話は変わってこの建物が現在の姿に変わった経緯についてです。日本郵政側は初め、この建物を取り壊し、建て替え工事を行うとの計画でしたが、鳩山邦夫総務相が日本のモダニズム建築の重要例であり、重要文化財級のこの歴史的価値を「トキ」に例えて待ったをかけました。その後、日本郵政側は駅前広場側の2割程度を残す計画としていましたが、鳩山総務相の「トキを焼き鳥にするのか」との言葉から計画は見直しに。鳩山総務相は「重要文化財のまま建て替えができればいいが、難しいならトキの剥製が残る形で再開発をしてもらいたい」とのことから、現在の保存割合は3割程度のなっています。

 

全体保存をするとする場合にその土地において容積率を他の土地に売却するという手法がありますが、東京駅前の超一等地の容積率を他に売却するとその価値が値引きされる可能性があり、一時的な利益より、長期的な収益を望む、と郵政側は述べています。

 

吉田鉄郎の作品には、大阪中央郵便局もありますが、こちらは再開発によってもう解体されてしまいました。これらのケースは場所が場所ということもあり、様々な状況を鑑みると全体保存が難しいということもあります。時代の変化とともに姿を変えるもの、その変化に適応できず消えていくもの、やはり致し方ないのだと思います。しかし、それらの存在は連綿と続いてきた私たちの歴史の1ピースなのです。建築に関わる財は建物だけではなく、写真や設計図、建築時に関わる文書などがあります。それらを記録、保存し、多くの人々に公開し、活用していく、建築の記憶をこの場所に建っていたという証を後世に伝えていく義務があると感じています。

 

f:id:Yuki-1013:20191210200123j:plain

 

福島県教育会館 ~地域に根ざす技術と造形~

福島駅に降り立ち、東へ歩みを進めること30分程度、目的の建物が悠々と流れる全国有数の大河、阿武隈川のほとりに建っています。

 

f:id:Yuki-1013:20191213154457j:plain

f:id:Yuki-1013:20191213154527j:plain

 

福島県教育会館は、626人収容の大ホールに会議室、ギャラリーを併せ持つ多目的施設です。平らな屋根に水平連続窓の棟には会議室にギャラリー、波打った屋根が特徴的な棟には、大ホールが内蔵されています。実はこの建物、竣工が1956年と結構高齢な建物なのです。

 

f:id:Yuki-1013:20191213154832j:plain

f:id:Yuki-1013:20191213154851j:plain


設計は、東京文化会館を設計した前川國男のメンバーであった大高正人鬼頭梓、木村俊彦らが結集したミド同人によって設計されました。

 

この波打つ屋根は1956年当時にしては、デザインされた、かなり贅を尽くした先進的な建築に映るかもしれません。しかし、そのようなことはなかったのです。

 

当時の福島市には、平土間で木造平屋の公会堂がある程度で普段は閑散とし、市民からも置き去りにされ、音楽会は小学校の講堂で催し、演劇は市内の映画館で行うといった状況でした。

その中で福島県教育会館は県教員組合の主だった5、60名ほどの教員からなる県教育会館建設委員会によって計画されましたが、建築資金は毎月100円ずつ積み立てた拠金を中心に県や市による補助金や寄付金となっていました。(大卒初任給は当時1万円ほど)そのため、当初は東方地方でありながらも暖房設備の割愛による最大限の客席の確保や建築の仕上げを簡素にすることによって費用の削減を行ったということでした。

 

また、大ホール、オーディトリウムのこの波打つ屋根は機能性と経済性を重視した結果に生み出された形態だったのです。屋根のコンクリートによるシェル構造を選択した経緯はとしては、舞台上に十分な高さを確保する必要があったこと、客席部分天井裏に舞台用照明、照明用通路の設置が必要であったこと、十分な遮音性能を確保する必要と鉄骨のトラスではコンクリートの殻をかぶるよりもはるかに不経済であったことがありました。

 

f:id:Yuki-1013:20191213155858j:plain

f:id:Yuki-1013:20191213155928j:plain

 

オーディトリウムの板が折れ曲がったようなこの形は折板構造と呼ばれるもので、平板に折れ角を持たせることで板面で荷重を受け持つという構造で紙を折ることによって強度を高めるというものと同様の原理です。またこの折板構造はシャイベとも呼ばれます。

 

f:id:Yuki-1013:20191213160954j:plain

f:id:Yuki-1013:20191213161250j:plain

 

外部仕上げはコンクリート打放しにコンクリート防水セメントペイント仕上げに手すりはプレキャストコンクリートブロックに鉄パイプと非常に簡易なものとなっています。コンクリート打ちっ放しの型枠には単価を下げるということでバラ板を用いたということで型枠の模様が残る荒々しい仕上がりに。進歩的な教員たちによって計画され、運営されるこの施設は半封建的社会の影が未だ残る当時の福島の街に新たな公共施設の姿を映し出し、荒々しい仕上がりの頑丈な建物は労働組合の大会など市民の激しい気運の高まり行動の呼応し、惑わずにその場を提供することになるでしょう。

 

f:id:Yuki-1013:20191213160127j:plain

f:id:Yuki-1013:20191213160646j:plain

f:id:Yuki-1013:20191213160356j:plain

f:id:Yuki-1013:20191213160504j:plain

f:id:Yuki-1013:20191213161044j:plain

 

 設計者の一人、大高正人メタボリズム・グループのメンバーでした。メタボリズムとは、新陳代謝という生物学用語。建築物の古くなった部分を取り替えたりと経年とともに変容していく有機的な建築を唱えました。

福島県教育会館では、現在1階ロビーには多くの事務所が巡らすように設置されていますが、当初はこれらは全くありませんでした。時代の変化、必要に応じて増築がなされ、新たな機能が付与される、まさに大高正人が標榜した理論を体現した建築の姿ではないでしょうか。

 

f:id:Yuki-1013:20191213161311j:plain

 

設計:ミド同人(大高正人鬼頭梓、木村俊彦、大沢三郎、足立光章他)

所在:福島県福島市上浜町10-38

 

北塩原村役場 ~自然の中の都市~

福島県北塩原村裏磐梯といった観光地で知られ、夏には多くの観光客が、冬は多量の雪に埋もれる村は、人口2710人ほどが暮らしています。五色沼桧原湖といった景勝地を後ろに控え、会津若松市喜多方市といった町々を見下ろす小高い丘の上に目的の村役場はあります。

 

f:id:Yuki-1013:20191130002226j:plain

f:id:Yuki-1013:20191130002722j:plain

 

この建物は、私が好きな建築家である谷口吉生氏による設計ということで足を運んだのでした。車で喜多方市から緩やかに坂道を登っていくと目的の村役場が見えてきます。すぐ近くには森が迫り、新緑の時期には萌える木々に見下ろす会津盆地には田畑がモザイクを描き出し、とても気持ちの良いものとなるでしょう。

 

建物自体は、役場機能とコミュニティセンターを複合しています。この建物が建築された1980年頃に国の過疎地域に対する補助事業としてコミュニティセンターは計画されました。そのため、建築主体が国と村となるため、建物自体が二分割されています。また、冬場は豪雪の見舞われる過酷な環境であることへの配慮として、雪溜まりをなくすように凹凸の少ない平面と陸屋根を基調としたものとなり、全体として直方体で平滑な姿となっています。

 

こちらの会津盆地に面した側の部分が役場機能、山側がコミュニティセンターとなっています。

 

f:id:Yuki-1013:20191130002551j:plain

f:id:Yuki-1013:20191130003536j:plain



この建物は、自然豊かなこの場所においては、人口的であり、無機質であり、幾何学的であるように思えるかもしれません。この建築の意図としては、最初は、雄大な眺望や田園的な背景といったこの土地特有の風土を生かした伝統的な形態を含んだ建築としようとしていたそうです。しかし、設計者はこの土地に度々訪れ、地域の人と交流を重ねることによってその考えも変化していったということです。驚くような雪に埋もれた景色、新緑の風景もその土地に住む人々にとっては、日常のごくごく普通な日常的な構図、都市に住む人々にとっても高層ビルや人々の雑踏は身近なもので代わり映えしないものです。人工的な都市の中では自然が映えるように、美しい自然環境の中にそれと調和した都市的環境を配置することでより一層自然を際立たせる、といった意図があったということです。

 

f:id:Yuki-1013:20191130002334j:plain

f:id:Yuki-1013:20191130002901j:plain

 

ホール内は、敷地が元から持つ高低差の変化に合わせて連続的に高さが変化しています。そして、円柱のコロネードとスカイライトによって、建物の中に都市と建築の間のような空間を演出しています。コミュニティセンターには小集会室、図書室、教室などがあり、この細長いホールが役場とコミュニティセンターを繋ぎ、長い冬を過ごす村民のための応接間になります。

 

f:id:Yuki-1013:20191130003054j:plain

f:id:Yuki-1013:20191130003124j:plain

f:id:Yuki-1013:20191130003143j:plain

f:id:Yuki-1013:20191130003211j:plain

f:id:Yuki-1013:20191130003604j:plain


盆地へ向けた直線的な造形に水平連続窓、ハードな外装仕上げと、美しい自然と人工との対比、中々美しいものです。人工的ながらも簡素で禁欲的な造形がなせる技なのでしょうか。

 

f:id:Yuki-1013:20191130002414j:plainf:id:Yuki-1013:20191130003337j:plain

 

旧陸軍歩兵第四連隊兵舎/仙台市民俗資料館

この日は休日、どこかに出かけようと思ったら、生憎の雨模様。仙台駅からほど近い榴ヶ岡公園に仙台市民俗資料館があることを思い出し、足を運んでみることに。

 

旧陸軍歩兵第四連隊兵舎、仙台市民俗資料館は公園の片隅にひっそりと、力強く佇みます。

 

f:id:Yuki-1013:20191127214219j:plain

 

旧陸軍歩兵第四連隊兵舎は、現存する宮城県最古の洋風木造建築で明治7年(1874)9月の完成とされ、昭和20年8月まで約70年間陸軍が使用し、戦後になると昭和31年(1956)まで米軍が駐留します。その後、昭和50年までは東北管区警察学校として使用された後、昭和52年(1958)榴ヶ岡公園整備に伴って旧陸軍歩兵第四連隊兵舎以外の建物は解体され、当建築は現在の場所に移築復元されました。

 

昭和53年(1978)仙台市有形文化財に指定された後、その翌年に仙台市民俗資料館として開館しました。

 

当建物は、木造2階建の寄棟造瓦葺で壁は漆喰塗りとなっています。

また、建物のコーナーはコーナーストーンで装飾し、窓は上げ下げ窓、曲面の屋根を持つ円柱の玄関ポーチといった洋風の特徴が見られます。

 

f:id:Yuki-1013:20191127214356j:plain

 

この横に長いプロポーションは、装飾のないシンプルな上げ下げ窓、横に伸びる真っ直ぐな梁、軒のラインによってその水平性が強調されています。その直線で描き出される建物は、軍隊の施設であった厳格な雰囲気を伝えてくるようです。

 

f:id:Yuki-1013:20191127214745j:plainf:id:Yuki-1013:20191127214538j:plain

 

また、角のコーナーストーンは漆喰塗りの真っ白な単調気味になる外観にアクセントを加え、建物の外郭線を際立たせています。

 

f:id:Yuki-1013:20191127214602j:plain

 

玄関ポーチの丸みを帯びた屋根は厳格な姿の建物にどこか穏やかさを与え、尋ねる人を優しく、柔らかく迎え入れてくれるようです。そして、ポーチの円柱は柔らかさに加え、気品を与えているように感じます。

 

f:id:Yuki-1013:20191127214514j:plain

 

ロビーも落ち着いた雰囲気で、装飾も階段の欄干やささら桁に施された雲のような繰形程度となっています。

 

f:id:Yuki-1013:20191127215028j:plain

f:id:Yuki-1013:20191127215039j:plain

f:id:Yuki-1013:20191127215125j:plain

f:id:Yuki-1013:20191127215130j:plain

f:id:Yuki-1013:20191127215259j:plain

f:id:Yuki-1013:20191127215307j:plain


仙台市の歴史を語る上でも、重要な当建築、この建築が正当な保存修復を受け、仙台市民俗資料館として有効に公開活用されていることにはとても嬉しく思います。歴史的建築物の保存活用には、学術的価値以外にも多くの市民に認識され、愛されることが重要なのだと思います。これからも多くの歴史的建築を多くの人々に伝えることに力を貸すことができたらと思っています。

 

仙台市民俗資料館

所在地:宮城県仙台市宮城野区五輪1-3-7(榴ヶ岡公園内)

入館料:一般・大学生/240円、高校生/180円、小学生120円

開館時間:午前9時〜午後4時45分

 

竹駒神社

竹駒神社は、宮城県岩沼市にある稲荷神社なのですが、この日は神社で調査があるとの話があり、その様子を見学させてもらうために訪れたのでした。

 

f:id:Yuki-1013:20191124192216j:plain

 

まず、竹駒神社について。竹駒神社は日本三大稲荷の一つとされ、衣・食・住の守護神とされる、

倉稲魂神(うかのみたまのかみ)

保食神(うけもちのかみ)

稚産霊神(わくむすびのかみ)

の三柱の神を祀っています。

創建は承和9年(842)で小野篁(おののたかむら)が陸奥守に着任の際、東北開拓、産業開発の大神として創建され、古くから多くの人々の信仰を集めてきました。

 

今回見たかったものの一つに竹駒神社唐門があります。この唐門はつい先日宮城県指定有形文化財に登録されたばかりです。天保13年(1842)の建築で中央の鳳凰の彫刻は目を見張るものとなっています。羽の一枚一枚、螺旋を描くような尻尾などその立体的な造形に裏付けられた卓越した装飾技術には感心させられます。鳳凰以外の装飾も職人の創意工夫が見られます。

 

f:id:Yuki-1013:20191124192706j:plain

f:id:Yuki-1013:20191124192754j:plain

f:id:Yuki-1013:20191124192845j:plain


次に、この建物、馬事博物館は通常、開館しておらず、祭りなど有事の時に開館されるそうです。特徴としては、屋根周りには寺社建築の仕上げ、居室となる部分には洋風としていることです。これは、昭和初期の鉄筋コンクリートの建物に日本趣味的仕上げとした「帝冠様式」に近しいものであると言えます。

 

f:id:Yuki-1013:20191124193211j:plain

f:id:Yuki-1013:20191124193316j:plain

 

腰壁は、秋保石…大谷石でしょうか、凝灰岩が用いられ、壁にはスクラッチタイル、屋根は銅板葺と茶色を基調とし、屋根には緑青と非常に落ち着いた色合いになっています。

 

f:id:Yuki-1013:20191124193503j:plain

f:id:Yuki-1013:20191124193528j:plain

f:id:Yuki-1013:20191124193624j:plain


この建物が建てられた当事は、日中戦争の最中でコンペにおいても「日本趣味を基調とする東洋式とする」との文言があり、国粋主義からなる様式がこの建物にも反映されたのでしょう。非常に面白いものを見させてもらいました。

豊田市美術館

せっかく名古屋までに来たのだから、あれも、これも、あとこれも見ていこう。

 

貧乏性な私は、何かの折に用事ややりたいことをいっぺんに済ましてしまおうという質なのですが、その綿密な計画はまず、うまくいってはくれないものです。

 

いつか訪れたいと思い焦がれ、とうとうこの日が来たと思ったら、美術館はまさかの休館期間。まあ、この日は天気も良く、写真を撮るには絶好の日だ、とか、またこの豊田の地に訪れる口実ができた、とか自分を慰めながら敷地周りを見て回ります。

 

f:id:Yuki-1013:20191123175715j:plain

f:id:Yuki-1013:20191123175832j:plain

 

この美術館は、休館日が休日、祝日の次の日といった具合では無く、展示品の入れ替え作業などで年に何回か、2〜3週間休館日を設けるといった特殊なスケジュールとなっていました。またの機会はしっかりと確認しなければと思います。

 

設計は谷口吉生氏。金属やガラス、コンクリートに石材といった材料を巧みに操り、繊細な直線によって描き出される空間に魅了され、酒田市土門拳記念館、東京の法隆寺宝物館、京都の国立博物館に足を運んだものでした。

 

f:id:Yuki-1013:20191123180545j:plain

f:id:Yuki-1013:20191123180648j:plain

f:id:Yuki-1013:20191123180744j:plain

f:id:Yuki-1013:20191123180841j:plain

 

この美術館が建つ場所は、かつて城があり、豊田市を見下ろす小高い丘になっています。その為、事務室や搬入口のレベル、来館者のための正面入り口のレベル、庭園のあるレベルとそれぞれ高さが異なっています。

 

f:id:Yuki-1013:20191123180158j:plain

 

建物の中央に位置するガラスで覆われた白い構造体は常設展示室で、夜になると光の箱になって辺りを照らし出すとのこと。夕刻の薄明の中に浮かびやがる白いガラス空間を想像すると次に訪れる時がさらに待ち遠しくなります。

 

f:id:Yuki-1013:20191123180305j:plain

f:id:Yuki-1013:20191123180407j:plain

 

庭園の設計はアメリカのランドスケープデザイナーのピーター・ウォーカー氏との協働。自然に対して異物であるはずの直線によるボリュームが違和感なく、互いを強調し、美しい空間を生み出すように作庭が行われています。

 

f:id:Yuki-1013:20191123180947j:plain

f:id:Yuki-1013:20191123181019j:plain

f:id:Yuki-1013:20191123181046j:plain

f:id:Yuki-1013:20191123181120j:plain



今回の来訪は休館日であったことによる落胆より、次回また訪れる時への湧き上がる思いが大きいものでした。また、この場所を訪れ、またもう一度文章に綴ることができたらと思います。

睦沢学校

 甲府駅北口を出ると何やらインベントがやっているらしく、ステージ上のフラダンスを横目に広場の隅に建つ建物へ。

 そこには和とも洋とも取れる不思議な建物が。

 

f:id:Yuki-1013:20190930142622j:plain

 

 この建物は明治8年(1875)に現在の甲斐市亀沢(旧睦沢村)に建てられた睦沢学校で、甲府市藤村記念館として甲府駅北口に移築されたものです。

 

 この建築の様式は擬洋風建築と呼ばれ、日本の伝統的な建築技術を基盤に西洋風の姿を作り出そうとした建築形式です。当時の日本は、開国して間も無く、学校を通した正規の建築教育を受けた日本人は1879年まで一人もおらず、西洋建築にも不習熟でした。その中で官庁営繕などを行う工部省の林忠恕は横浜で外国人建築家に西洋建築を学び、西洋建築を参考にした「林忠恕式」と呼ばれる形式を生み出し、官庁建築、学校建築においての手本となりました。しかし、各校のデザインに関してはそれぞれの学校を請け負った大工棟梁に依るところが大きく、しっくい壁や蔵に見られるなまこ壁、社寺建築の装飾を用いるといった伝統日本建築のものとなっています。実際にここ睦沢学校では、江戸時代より名の知れた下山大工の出身である松本輝殷が棟梁として工事を請け負っています。また、当時の山梨県第5代県令藤村紫朗の熱心な教育普及の活動により、睦沢学校をはじめとした独特の擬洋風建築を生み出し、それらを藤村紫朗の名にちなみ、藤村式建築と呼んでいます。

 

f:id:Yuki-1013:20190930142825j:plain

 

 この建物の形は左右対称の構成で中央に塔を戴く形で、学校や庁舎などの擬洋風建築に多く見られる形です。中央の塔屋は太鼓楼と呼ばれています。

 

f:id:Yuki-1013:20190930143518j:plain

 

 玄関前の車寄せやベランダ、黒塗りのアーチを持つ窓枠といった洋風の特徴を見ることができます。

 

f:id:Yuki-1013:20190930144004j:plain 

  しかし、桟瓦、ベランダの雲形のような曲線を持つ幕板は日本建築的であり、柱の上下端の丸みを帯びるように削られた姿は建長寺などに代表される禅宗様建築の特徴であるちまきを思い起こさせます。また、ベランダの軒天井は菱組の透かし打天井となっています。

 

f:id:Yuki-1013:20190930145104j:plain

再現された当時の教室の様子。

f:id:Yuki-1013:20190930145249j:plain

ベランダから甲府駅方向をみる。

 現在、甲府駅北口広場の北側には山梨県立図書館、その東側には山梨文化会館があります。山梨の明治、昭和、平成を代表する建築を概観することができ、その風景には感慨深さを感じます。

 

甲府市藤村記念館

山梨県甲府市北口2-2-1(甲府市北口広場)

 

開館時間:午前9時〜午後5時

休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始

入館料:無料